もう、ダメなのかもしれない 生まれつきボーッとしている。 少し詳しく言えば、興味の無いことは自分の意思とは関係なく、脳に幕がかかってきてしまう。かといって、好きな事に集中してると他人の声が聞こえなくなる。これでは第三者が見れば、一年中、呆けていると思われても仕方ない。 「うわさの天海」のおみゃ〜おじさんと思っていただければよろしいのだが、もはや「天海くん」を憶えている人はほとんどいないだろう。想像でおぎなってくれ。 最近ではそれが悪化し、好きでやってるこのホームページ編集でさえ、注意力が散漫になってきた。
ジャパニーズ・タカハシより「芝公園内に古墳あり」の情報を得て、出かけた。しかし取材時の必須携帯物、カメラ・地図・メモ帳・‘ザ・グレトー・ムガ’などをすべて家に置き忘れ、飛び出してしまった(よって、今回の写真は、文章に書いた時点より三日後に、再取材に行ったときのものである)。 うろ覚えの記憶で、たしか芝公園の南側だったはずだと、日比谷通りに面した公園のようなところに入っていく。しかし、そこは何の目的で作られたのかよく分からない広場のようなところであった。 どうも隣の敷地に神社やこんもりとした樹木が見えているので、遺跡はそちら側なのだろうなと思いながら、とりあえず広場の奥まで行ってみると、明らかにその広場とは管理の管轄が違うと思われる古い石段が見えた。[A] その石段は右と左に分かれていて両方とも森の中へ続いていた。「結界」という言葉が頭の中をよぎる。
いちど日比谷通り側にもどり、隣の敷地の入口から遺跡と思われる場所を探したほうが賢明かな、と思ったとき、左側の石段の上の方で、ネコが「にゃあ」と鳴いた。 なんだか行き先案内をしてくれたような感じだったので、おれはその左側の石段を昇ることにした。 石段を昇っていくと、木々に囲まれた小高い丘の頂上に出た。どうもそこ自体が、芝丸山遺跡(前方後円墳)の上らしい。おれは仁徳天皇陵の小型版のようなものを想像していたので、ちょっと肩透かしをくらったような気がした。 その頂上広場には伊能忠敬の測量開始地点の碑 [B] と、遺跡の調査をした坪井正五郎の石碑 [C] が鎮座していた。
別段おれの心をおどらせるものもなく、さっき昇ってきた道とは別の、おそらく古墳前部の側とおもわれる道を歩き、下ることにした。 石段を降りていくと小広い場所に出た。そこは地理的には古墳の中段といった地点のようだった。 「芝丸山古墳」の石碑を見るとはなしに見ていると、広場の片隅から「にゃあーん」という鳴き声が聞こえた。つづいて反対側から「元気かー」と男の声。視界の左端から、さっき石段の中腹にいた若いネコが、声の主の初老の男の方へ、うれしさをみなぎらせて一目散に走って行った。[D] それは喜びに満ちた美しい跳躍であった。 「宇宙の理」まで感じさせる躍動。 老人はネコの両前足を持ち、だき上げて頬ずりをした。老人がおれに気がついて、エヘヘと笑みをこぼした。何か言わなきゃいけないとは思ったが、「かわいいですね」としか言えなかった。 あまりそのまま見つめつづけているのも失礼だとおもったので、そこを去ることにして、さらに下るための石段のほうへ歩く。
その広場から下りて行く寸前、もういちどふりかえって老人とネコを見た。 老人は石のベンチにこしかけ、その横にネコがちょこんとすわっていた。[E] なんてことだ。 「完全な光景」を目撃してしまった…… なぜか、胸がいっぱいになり、喜びがあふれ、涙がこみ上げそうになった。宗教的熱狂、とはこの様な事なのかもしれない。 古墳の麓(つまり地上)は梅園になっていた。[F] 梅の花はすでにあらかた散っていた。 残っていた花は、一割程度か。[G] しかし感激で胸がいっぱいになっているおれにとっては、その残り少ない花が、おれに見てもらうために、ぎりぎりまで散らずにとどまっていてくれた様に思え、また泣きそうになる。
ここで、おれにとっては胸の奥深くにしまい込んだ、ある出来事を思い出してしまった。 20代のはじめころ、家のそばにブロック塀の上から、おれが通りかかると「 ミー 」とかぼそい声で鳴くノラネコがいた。内臓に病気でもあるのだろうか、腺病質の骨細のネコだった。よびかけると、いつも逃げないで肺活量の少ないその声で、返事を返してきた。 数週間後、ブロック塀の上から抱き上げて、家につれて帰ってきた。そのネコはそのままおれの家に居着き、いつも「 ミー 」と鳴くから当然のように「ミー」という名前になった。 「ミー」は誕生してすぐに我が家に来たわけではないのに(おそらく生後1年くらいだったと思う)、良くなついた。あいかわらず体型は虚弱であったが、特別、大病を患うでもなく、のんびりと過ごしていたようであった。 それから3年間くらい経った頃の、おれのマイ・ブームは沖縄であった。沖縄というより、八重山諸島と言ったほうが正確か。アルバイトで小銭を貯めてはの八重山通いが続いた。あげくのはて、これなら現地でバイトしたほうがよいと思い、その名も「南洋土建」という西表島にあった土木工事会社で、3ヶ月間働いた。 そして西表島から上野の家に戻ってみたら、ミーちゃんは体調を崩していて部屋の片隅にダンボールとボロ布でつくってもらった巣で横になっていた。 おれが帰ってきたのが分かったのか、その箱から這い出てきて、ヨロヨロとおれがアグラをかいている足の上に乗ってきた。もう、相当体力を消耗しているらしく、ミーちゃんはおれのあぐらの上で眠り、失禁をした。 翌日ミーちゃんは死んだ。 おれの母親が 「ミーはタカヒロ(おれの本名)が帰ってくるのを待ってたんだねー」 と言った。 散らずに残っていてくれたた梅の花を見て、ミーちゃんが心の奥からよみがえってしまった。 本格的に涙が噴き出し、嗚咽まで漏れそうになる。 これはいけませんと、いそいでこの「感涙の園」を出る。表通りの日比谷通りを渡ったところに小さな公園があった。 公衆便所の[H]個室に入り、通行人にみられても恥ずかしくないように、泣き顔が収まるまで篭城しようと思ったが、個室は誰かが使用中であった。 しかたがないので、公衆便所の外側に設置されていた飲み物の自動販売機でブラック・コーヒーを買い、都合良く、日比谷通の歩道の裏側に、もうひとつ人通りの少ない遊歩道が敷設されていた[I]ので、そこをうつむいて歩いた。 その遊歩道にあったベンチにすわり、コーヒーを飲み、煙草を一本吸って、高ぶった感情をクール・ダウンさせようと努力する。
かなり落ち着いてきたのが分かったので、家に帰るためJR浜松町をめざした。 山の手線に乗ってからは、本を読み始めていたので、ようやく感情の嵐が去ったように思えた。 ほどなく上野に着き、JR駅前の巨大歩道橋 [J] を歩いているとき、もう家が近い、と気が緩んだせいか、また感情が爆発的に込み上げてしまい、 ミーちゃん!!! と大声でワメいてしまった。
声を発してしまった瞬間、「しまった!」と思った。まわりを歩いていた人々が、おれの顔をみながらも、避けるようにして散っていった。 おれは、とりつくろいの仕様もなく、知らんぷりをして歩きつづけるしかなかった。 さすがに、これには「常軌を逸している」と自覚せざるを得なかった。 精神のどこかが崩壊し始めているのだろうか。もうダメなのか。 もはやこれまでか、それとも、何かまた別の道の始まりなのか。 わからん。
( この項、つづく ) |
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3/19 芝公園 芝丸山古墳 (13日のつづき) 付記
この項おわり |
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