3/13  芝公園 芝丸山遺跡 ヤマザキ報告 (末期的症状・写真)


芝丸山古墳


都営地下鉄 三田線
  芝公園駅 出口4より 徒歩3分



JR浜松町駅より 徒歩15分

 もう、ダメなのかもしれない


 生まれつきボーッとしている。
 少し詳しく言えば、興味の無いことは自分の意思とは関係なく、脳に幕がかかってきてしまう。かといって、好きな事に集中してると他人の声が聞こえなくなる。これでは第三者が見れば、一年中、呆けていると思われても仕方ない。

 「うわさの天海」のおみゃ〜おじさんと思っていただければよろしいのだが、もはや「天海くん」を憶えている人はほとんどいないだろう。想像でおぎなってくれ。

 最近ではそれが悪化し、好きでやってるこのホームページ編集でさえ、注意力が散漫になってきた。

*               *               *


 
ジャパニーズ・タカハシより「芝公園内に古墳あり」の情報を得て、出かけた。しかし取材時の必須携帯物、カメラ・地図・メモ帳・‘ザ・グレトー・ムガ’などをすべて家に置き忘れ、飛び出してしまった(よって、今回の写真は、文章に書いた時点より三日後に、再取材に行ったときのものである)。

 


 うろ覚えの記憶で、たしか芝公園の南側だったはずだと、日比谷通りに面した公園のようなところに入っていく。しかし、そこは何の目的で作られたのかよく分からない広場のようなところであった

 どうも隣の敷地に神社やこんもりとした樹木が見えているので、遺跡はそちら側なのだろうなと思いながら、とりあえず広場の奥まで行ってみると、明らかにその広場とは管理の管轄が違うと思われる古い石段が見えた
[A]
 
その石段は右と左に分かれていて両方とも森の中へ続いていた。「結界」という言葉が頭の中をよぎる。


[A]


 
いちど日比谷通り側にもどり、隣の敷地の入口から遺跡と思われる場所を探したほうが賢明かな、と思ったとき、左側の石段の上の方で、ネコが「にゃあ」と鳴いた。

 なんだか
行き先案内をしてくれたような感じだったので、おれはその左側の石段を昇ることにした。

 石段を昇っていくと、木々に囲まれた小高い丘の頂上に出た。どうもそこ自体が、芝丸山遺跡(前方後円墳)の上らしい。おれは仁徳天皇陵の小型版のようなものを想像していたので、ちょっと肩透かしをくらったような気がした。

 
その頂上広場には伊能忠敬の測量開始地点の碑
[B] と、遺跡の調査をした坪井正五郎の石碑 [C] が鎮座していた。

[B] [C]

 
別段おれの心をおどらせるものもなく、さっき昇ってきた道とは別の、おそらく古墳前部の側とおもわれる道を歩き、下ることにした。


 石段を降りていくと小広い場所に出た。そこは地理的には古墳の中段といった地点のようだった。
 「芝丸山古墳」の石碑を見るとはなしに見ていると、広場の片隅から
「にゃあーん」という鳴き声が聞こえた。つづいて反対側から「元気かー」と男の声。視界の左端から、さっき石段の中腹にいた若いネコが、声の主の初老の男の方へ、うれしさをみなぎらせて一目散に走って行った。[D]

 
それは喜びに満ちた美しい跳躍であった。

「宇宙の理」まで感じさせる躍動。

 
老人はネコの両前足を持ち、だき上げて頬ずりをした。老人がおれに気がついて、エヘヘと笑みをこぼした。何か言わなきゃいけないとは思ったが、「かわいいですね」としか言えなかった。
 あまりそのまま見つめつづけているのも失礼だとおもったので、そこを去ることにして、さらに下るための石段のほうへ歩く。

 
[D] [E]


 
その広場から下りて行く寸前、もういちどふりかえって老人とネコを見た。
 老人は石のベンチにこしかけ、その横にネコがちょこんとすわっていた。
[E]


なんてことだ。

「完全な光景」
を目撃してしまった……

 
なぜか、胸がいっぱいになり、喜びがあふれ、涙がこみ上げそうになった。宗教的熱狂、とはこの様な事なのかもしれない。


 古墳の麓
(つまり地上)は梅園になっていた。
[F] 梅の花はすでにあらかた散っていた。
 残っていた花は、一割程度か。
[G] しかし感激で胸がいっぱいになっているおれにとっては、その残り少ない花が、おれに見てもらうために、ぎりぎりまで散らずにとどまっていてくれた様に思え、また泣きそうになる。

[F] [G]


 
ここで、おれにとっては胸の奥深くにしまい込んだ、ある出来事を思い出してしまった。

 
 20代のはじめころ、家のそばにブロック塀の上から、おれが通りかかると
 ミー とかぼそい声で鳴くノラネコがいた。内臓に病気でもあるのだろうか、腺病質の骨細のネコだった。よびかけると、いつも逃げないで肺活量の少ないその声で、返事を返してきた。

 数週間後、ブロック塀の上から抱き上げて、家につれて帰ってきた。そのネコはそのままおれの家に居着き、いつも
 ミー と鳴くから当然のように「ミー」という名前になった。
 「ミー」は誕生してすぐに我が家に来たわけではないのに
(おそらく生後1年くらいだったと思う)、良くなついた。あいかわらず体型は虚弱であったが、特別、大病を患うでもなく、のんびりと過ごしていたようであった。



 
それから3年間くらい経った頃の、おれのマイ・ブームは沖縄であった。沖縄というより、八重山諸島と言ったほうが正確か。アルバイトで小銭を貯めてはの八重山通いが続いた。あげくのはて、これなら現地でバイトしたほうがよいと思い、その名も「南洋土建」という西表島にあった土木工事会社で、3ヶ月間働いた。

 そして西表島から上野の家に戻ってみたら、ミーちゃんは体調を崩していて部屋の片隅にダンボールとボロ布でつくってもらった巣で横になっていた。
 おれが帰ってきたのが分かったのか、その箱から這い出てきて、ヨロヨロとおれがアグラをかいている足の上に乗ってきた。もう、相当体力を消耗しているらしく、ミーちゃんはおれのあぐらの上で眠り、失禁をした。

 翌日ミーちゃんは死んだ。

 おれの母親が
「ミーはタカヒロ
(おれの本名)が帰ってくるのを待ってたんだねー」
と言った。


 散らずに残っていてくれたた梅の花を見て、ミーちゃんが心の奥からよみがえってしまった。


 
本格的に涙が噴き出し、嗚咽まで漏れそうになる。

 これはいけませんと、いそいでこの「感涙の園」を出る。表通りの日比谷通りを渡ったところに小さな公園があった。

 公衆便所
[H]個室に入り、通行人にみられても恥ずかしくないように、泣き顔が収まるまで篭城しようと思ったが、個室は誰かが使用中であった。
 しかたがないので、公衆便所の外側に設置されていた飲み物の自動販売機でブラック・コーヒーを買い、都合良く、日比谷通の歩道の裏側に、もうひとつ人通りの少ない遊歩道が敷設されていた
[I]ので、そこをうつむいて歩いた。

 その遊歩道にあったベンチにすわり、コーヒーを飲み、煙草を一本吸って、高ぶった感情をクール・ダウンさせようと努力する。

[H] [I]

 
かなり落ち着いてきたのが分かったので、家に帰るためJR浜松町をめざした。
 山の手線に乗ってからは、本を読み始めていたので、ようやく感情の嵐が去ったように思えた。

 ほどなく上野に着き、JR駅前の巨大歩道橋
[J] を歩いているとき、もう家が近い、と気が緩んだせいか、また感情が爆発的に込み上げてしまい、


   ミーちゃん!!!

と大声でワメいてしまった。

[I]


 
声を発してしまった瞬間、「しまった!」と思った。まわりを歩いていた人々が、おれの顔をみながらも、避けるようにして散っていった。
 おれは、とりつくろいの仕様もなく、知らんぷりをして歩きつづけるしかなかった。

 さすがに、これには
「常軌を逸している」と自覚せざるを得なかった。
 精神のどこかが崩壊し始めているのだろうか。もうダメなのか。

 もはやこれまでか、それとも、何かまた別の道の始まりなのか。

わからん。


「宇宙の意味を教えてあげよう。
全ては君がここにこうしているためのお膳立てだったのさ」

(ショーグン・ヤマザキ著 ミルキーウェイの旅 / 2億7000万歳の青年』より)


( この項、つづく )

          
3/19  芝公園 芝丸山古墳   (13日のつづき)

付記






初日の取材から三日後、あらためて写真を撮りに芝丸山遺跡へ出向いた。
今度は正式(?)に梅園の入口から入園する。


あらかた散ってしまった梅の花の写真を撮撮影していると、犬に散歩をさせていた老婦人が
「プリンス・ホテルの裏のところの桜が満開ですよ」
と親切に教えてくれた。
「お花がお好きなようなので……」とも言われる。
三日前にこの様なお優しい言葉をかけられていたら、その瞬間に爆泣したことであろうが、どういうわけかこの日はまったく冷静であり、桜の情報についてのお礼を言い、その場を辞した。

この前はどうしてあんなに感情が高ぶってしまったのか、不思議であった。



梅園より一段上の、前回の「完璧な光景・老人とネコ」の広場を経て、古墳頂上広場で伊能忠敬の碑などの写真を数枚撮る。

JR浜松町駅から歩きづめだったので、頂上広場のベンチにすわり、タバコに火をつける。

前回の激情について思いをめぐらす。
「平気で豚・牛・鶏などの肉を食べているのに、飼い猫の死には半狂乱かい!」と自分ツッコミ。
でもどうしようもない。
人間は、いや、おれは矛盾だらけのまんま生きていくんだねえと、一人ごちる。

それにしたって、今回の平静さかげんはどうだ。もしかすると、三日前のように「結界」の側からの逆コースをたどらなかったためか、とも推定する。



頂上広場では散歩に来ているらしい中年女性の二人組みが、広場の奥のベンチでおしゃべりをしていた。
この日は天気も良かったのに、園内で出会った人は、梅園にいた親切な老婦人と、この中年女性の二人組みのつごう三人だけであった。

マイルドセブンを吸い終わりかけたとき、ああ、こんなこともあるのか、おれの天敵、警備員(パトロール中の警察官?)が登場して、話しかけてくるでもなく、まとわりつき始めた。(警備員・ガードマン・門衛たちとおれの相性は 2月23日の桜橋 の項参照のこと)

一体どうしておれを含めて三人しかいない広大な遺跡公園に、警備員が登場するのか。偶然にしても、日本の職業人口比率で考えると、異常な確率である。


どうなっておるのだ。


このとき気づいた。
この地 (芝丸山遺跡) はある種のパワー・スポットなのではないか?

前回はおれの記憶のどこかを刺激し、嗚咽さえさせた。今回はおれの「警備員吸引力」ともいうべき超能力(?)を顕現させたのではないのか。



奈良県の山奥の某有名神社で、宮司をしている友人がいる。
その神社は昔から強烈なご利益で知られ、知る人ぞ知る、超パワースポットであるらしい。なにしろ真夜中に、社殿内の畳が1メートルくらい飛び跳ねたりするとのことである。

その友人は、「山奥なのにマグロ三昧」と言って笑っていた。理由はこの神社で何事か祈願して、それが成就した人々が、熱心な信者となり、山奥だからさぞ海の魚が入手しがたいであろうと推測して、冷蔵の宅配便で送ってくれるそうな。それで、神社の冷蔵庫にはいつも上等のマグロが満載ということである。

興味深いのは、放蕩三昧の自業自得で金銭に困窮している者が、「金が欲しい」と祈願して成就する事もあれば、誰が見ても本人は刻苦勉励しているのに、願いが叶わない事もあるそうだ。

どうも神様は、人間の感覚とは違う基準で、差配をしているようである。
だから、三人しかいない公園に警備員を登場させたり、昔の愛猫の事を思い出させ、涙にくれさせることくらいたやすい事だったのであろう。

まー、おれはあんまりパワー・スポットだの風水だの占ないなどは信じてないほうだが、鍼灸を例にとると、「経絡」という西洋科学では立証されていない理論を使って、病気治癒に実効をあげているのだから、目に見えない何事かが、あるのかもしれぬ。


さらにこの話には続きがある。
この2回目の取材の翌々日、地図の写真(地図看板)を撮るのを忘れていたため、もう一度、芝公園へ出向いた。
公園の北の端から、手当たり次第に園内案内地図の看板を撮影していくつもりであった。
一枚目の案内板の写真を撮り、背後に視線を感じたので、振りかえってみると、前々日しつこくおれにまとわりついた警備員が、ジッとこちらを見ていた。

――― どうして、おれがこの日の、この時間の、この場所に撮影に来る事が分かったのか。どうして日比谷通りに面した通行人が何百人もいる交差点で、おれを発見できたのか。
どうしてどうしてどうして、と疑問が頭の中でグルグル回る。


ほんとうに、どうなっておるのだ。


以後、その警備員は五日前に、泣き顔を通行人に見られないように駆け込んだ芝公園の南の端の公衆便所の付近まで、えんえんおれにまとわりつき続けた(下図参照)
まとわりつかれ経路

この前来たとき、気を落ち着かせるために缶コーヒーを飲み、たばこを吸った遊歩道のベンチのところで、やりすごそうと座っていると、向かい側にあるベンチのまわりで、炭をつかむ時に使うトングのような機具で、ゴミを拾うフリさえした(写真参照)
しばらくすると間がもてなくなったため、奴はゆっくりと公衆便所のほうへ移動していった。
「ゴミを拾うフリ」なのは、ベンチのまわりはゴミが散乱したままであったので、明白であった。


昔の人が、芝丸山遺跡の土地がパワースポットだから古墳を造ったのか、古墳を造ったからパワースポットになったのかは、おれには判らない。ただ霊験はあらたかだという事は、よーくわかった。




さっ、さくら、さくらまんかい! 桜満開!! プリンスホテル裏!!!



この項おわり









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