2008

12/30  西新宿 十二社 (新宿区) ヤマザキ報告 ( みんな夢の中)

(かつてスタジオ・ゼロが入居していた市川ビルがあった場所)      

      一生分の運を使い果たした日


1965年のある日、スケッチブックを小脇に抱えた小学生が3人、西新宿の路上に立ちつくしていた。おれと幼なじみのアッちゃんとアッちゃんの弟のツヨシである。

上野の片隅に棲息していた悪ガキが、新宿の外れくんだりまで遠征していたのには訳があった。

その頃おれはマンガ・マニアであり、とりわけ赤塚不二夫先生の熱狂的な支持者であった。赤塚先生が「スーダラおじさん」で週刊誌デビューする以前から、少年月刊誌(たしか『ぼくら』か『日の丸』『冒険王』。もしかしたら『少年』か『漫画王』)で「カン太郎」を連載していた時からの筋金入りのファンであったのだ。

    
コビトチョコレートの景品のおそ松くんペナント。 おそらく現在の所有者は日本中でおれだけだと思われる。あげないよ。ギャハハ。

いつも読んでいた「少年サンデー」や「少年マガジンや「少年キング」のページの端には「○○先生にはげましのお便りを出そう」という一行が常に掲載されていた。当然住所も記載されていたので、熱狂的ファンであるおれは、そこへ行けば赤塚先生に会えて、サインももらえると踏んだのだった。ファンレターの宛先には「スタジオ・ゼロ」と書いてあり、そこには藤子不二夫先生の「藤子プロ」、つのだじろう先生の「つのだプロ」も入室している事は承知していた。

とある週末に友だちのアッちゃんを誘って、おれたちはスタジオ・ゼロを目指した。上野から国鉄の山手線に乗り、新宿で下車し、適当に駅ビルの外へ出ると交番があったので、道順を尋ねた。応対してくれた中年巡査は「キミ達歩いていくのかい?」と言った。小遣い銭を溜めた電車賃しか持って無かったおれは「はい」と答えた。その巡査は小学生にも分かるように地図を書いてくれた。

今から考えるとその交番は新宿駅の東口にある交番であったはずだ。この小文を書くに当たって、再度、新宿駅からの道のりを歩いてみたのだが、この交番は当時のおれの記憶とは駅ビルの出入り口をはさんだ反対側になっていた。リポートに正確性を期(記)するため、派出所前に立っていた青年巡査に
「この交番は40数年前には反対側にありませんでしたか」
と質問したら、若いおまわりさんはアブナイ人を見る目になって
「さあ……、ちょっと分からないんですけど…………」
と困られていた。そりゃそうだろう。

まあとにかく1960年代中期の新宿駅東口の親切なお巡りさんに書いてもらった地図を頼りに、おれたちは青梅街道をスクラムを組んで、クレージーキャッツのホンダラ行進曲を歌いつつゲラゲラ笑いながら歩いて行った。


コビトチョコレートの景品のおそ松くんタオル。おそらく現在の所有者は日本中でおれだけだと思われる。やらないよ。けけけけけ。


道順は至極簡単で、新宿駅から青梅街道に入り、1回だけ左折して十二社(じゅうにそう)通りを行くというものだった。その角を曲がる時、目の前をベージュ色のブルバードが走り去っていった。そのドアには「おそ松くん」のキャラクターが描かれていた(これはおそらく当時のアシスタントであった高井研一郎氏の愛車だったと思われる)。いやがおうにも期待は高まった。子供の足で45分程度歩いたところに、スタジオ・ゼロはあった。窓に大書してあったので、間違いようは無かった。

しかしここまで来て怖気づいた。有名な漫画家の先生が我々に会ってくださるのであろうか、迷惑じゃなかろうか、なにより気恥ずかしい。そんな事をスタジオ・ゼロの通りの向かい側で15分ほどすったもんだ話し合った。後先考えずに行動を起こして後悔する性格は、ガキの頃からなのだなあ。

臆病者の会議は「せっかく来たのだから行ってみよう」という、当たり前の結論に達し、われわれは意を決してスタジオ・ゼロのあるビルの階段を昇った。おっかなびっくり3階か4階にあったスタジオ・ゼロの入り口まで行ってみると、つのだじろう先生の筆による見学についての注意書きが貼られており、
「見学は第一・三土曜日の午後0時から3時まで」(註: この数字は茫洋とした記憶にもとづくもので、おそらく正確ではありません)
と記されていた。

その日は第三土曜日ではなかった。残念ではあるが、何だかホッとした気持ちになって、スタジオ・ゼロから撤退した。
 
     
1964年に二子玉川園で開催された『マンガはくらんかい』のスタンプ帳であるおそらく現在の所有者は日本中でおれだけだと思われる。5億出したらちょっとだけ見せてあげるよ。ヒャーッハッハッハッハ


当然のごとく次の見学日には再度スタジオ・ゼロへ出掛けていった。スタジオ・ゼロは大きなワンフロアーを3つに仕切って、フジオ・プロ、つのだプロ、藤子プロ(藤子スタジオ)が使用していた。ドア前の注意書きには、サインは各々、画用紙を持参する事、その画用紙には提出者の名前を記入しておくこと、次回の見学日にその提出した画用紙にサインをして返却すること、などが書かれていたので、各漫画家のアシスタントさんに画用紙を渡して帰った(どういうわけか、この日の記憶はほとんど無い)。

そしてさらに2週間後、3度目の新宿遠征でわれわれはサインをもらう事に成功した。藤子プロでおばけのQ太郎の絵が描かれたサインをもらい、つのだプロで「怪虫カブトン」の人気キャラクターの「グリグリ」の絵入りサインを頂き(フェルトペンではなく、下書きしてペンを入れられた本物の漫画原稿のように描いて下さっていたので感激した)。つのだ先生は気さくなお人柄のようで、見学者や来訪者とも和やかにお話をされていた。

いよいよ赤塚先生のフジオ・プロに入って、近くにいたアシスタントさんにサインを受け取りに来た旨の事を述べると、ちょっとした問題が発生した。われわれがサインを申し込んだ画用紙が見つからなかったのだ。困ったアシスタントさんは、われわれをフジオプロの一番奥に連れていった。そこには赤塚先生がいた。

顛末を聞いたらしい赤塚先生は、自分の机から画用紙を出してサインをしてくれた。おれは声が出ず、直立不動で赤塚先生の背後に立っていた。先生はフェルトペンで赤塚キャラクターとサインを書いてくれた。図々しく、その場にいない妹の分も描いていただいた。当時、眠る時間も無い売れっ子漫画家の先生方が時間を割いてファンサービスをしていたのだから、やはり子供が好きだったのだろうね。

だが、その時おれはスーパースターが目前にいる事で舞い上がってしまい、赤塚先生が着用していらした薄茶色のセーターの肘にパッチが貼ってあり、高級セーターであったはずなのだが、小学生のおれには「ツギ」だと思ってしまい、赤塚先生は人気漫画家なのに貧乏なのかなあと、要らぬ心配をしていた。

サインをいただいて、ようやく「ありがとうございました」とだけ何とか搾り出して言い、フジオ・プロをあとにした。
スタジオ・ゼロの扉を出た階段のところで、描いてもらったばかりの絵入りサインを分配することになった(つのだプロ、藤子プロで頂いたサインは提出した画用紙に名前を書いていたので、問題なし)。赤塚先生が描いてくれたのは「おそ松くん」「ハタ坊」「デカパン」「チビ太」の4枚であった。

おれ、アッちゃん、サトシの全員がチビ太が欲しいと言い、ジャンケンで決める事になった。おれは本当にチビ太のサインが欲しかった。今でも背の高い方ではないが、小学生の時は当然もっと背が低く、チビのくせにガッツ溢れるチビ太に多大なるシンパシーを抱いていたのである。現在でもチビ太の絵なら下書き無しで描ける。

ただおれは博才が無く、ジャンケンにおいてもここぞという時には必ず負けるという能力を有していた。しかしどうしてもチビ太のサインが欲しかったおれは、自分でも無意識のうちに「未来の運」もここに注ぎ込むことにしたようだった。

そしてジャンケンには勝った。チビ太が手に入った時は至福の状態であった。かすかに「どうして勝てたのだろう」という気はしていたが。

後年、このときに一生分の運を使ってしまったことを、長年にわたって思い知る事になるのであった。


(この項 つづく)
     
(31日のつづき)

12/38

赤塚先生に実際に対面できたのは、はるか昔の小学生時代の1度だけである。ただ夜間大学へ通っている時代に新宿にあるジャズクラブ「J」で、店内に置かれていた落書きノートにハタ坊とチビ太を描いて「何となく懐かしいハタ坊とチビ太を書いてみました」と記しておいたところ、次に店を訪れた時に、おれのイタズラ書きの下に、赤塚先生が本物のハタ坊とチビ太を描かれていて「何となく懐かしいハタ坊とチビ太を書いてみました」というコメントが付されていたのを発見して、ひっくり返った事がある。

ささいな事かも知れないが、おれにとっては赤塚先生の人となりが窺える、大きな出来事であった。



 皆さんもご存知の通り、赤塚不二夫先生は2008年8月2日にご逝去されました。

 赤塚先生の闘病生活は2002年4月からから08年の8月までの6年にも及んだ。04年からは植物状態にあったという。しかしおれは赤塚先生が自分の周りの人々やファンにショックを与えないためにスーパー・スロー・フェイド・アウトの道を選ばれたのだと思っている。6年間の長きに渡る入院生活は赤塚先生の気遣いであった。その証拠と言えるかどうかは分からないけれど、前妻の登茂子さんがお亡くなりになった三日後に生涯を閉じられている。

 だから、お気遣いを無にしないためにも、泣き言は言うまい。これでいいのだ国会で青島幸男が決めたのだ賛成の反対レッツラゴーン!!



聖地巡礼
■宝仙寺(中野区 中央)
写真は赤塚先生の葬儀
8月7日)終了直後の境内
  


■フジオプロ (新宿区 中落合 ひとみマンション内)
主のいなくなったひとみマンションは寂しげであった
(2008年8月24日撮影)
    


■トキワ荘跡(豊島区 南長崎)
2009年3月にはトキワ荘跡より西に約250メートルのところにある南長崎花咲公園にトキワ荘の碑が建立されるそうである。

  




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 地図上で見ると、スタジオゼロのあった十二社と、フジオプロのある中落合と、トキワ荘のあった南長崎は、ほぼ南北に一直線である。風水とか気学とかで言えばどうなるのだ。超弩陽の気が流れているのだろうか。  

 意外なことにトキワ荘跡とひとみマンションは区が違うため、かなり離れた場所と思いがちだが、実際には直線距離で1キロメートルほどの距離であった。

 偶然ではあるが、この4聖地はすべて都営
大江戸線でカバーできる。
トキワ荘跡(地図4)→「落合南長崎駅」
フジオプロ(地図3)→「中井駅」
宝仙寺(地図2)→「中野坂上駅」
スタジオゼロ跡(地図1)→「西新宿五丁目駅」



トキワ荘跡の写真を撮っての帰り道、落合南長崎駅近くの交差点まで来た頃に、空が物凄い夕焼けになったんダス。中島らもさんが亡くなった翌日の天気も何かを暗示しているような空だったんダジョー。この時も何だか赤塚先生の贈り物のように感じたんだニャロメー!!
(笑わば笑え)

そんな事をされたら来世の運もなくなるザンス。







赤塚先生、
サンキュー ベラマッチャ!!!!!!!


そして皆様 メリークリ正月! 2009年もダラダラやりますのだ。









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