2007



8/15 神田錦町 日本野球発祥の地 (千代田区) ヤマザキ報告 ( しれっとした顔で再開・写真)
 

●都営三田線 神保町駅
  出口9 より徒歩30秒

  遥かなるベイスボオルの多大なる功績


1872年のある日、アメリカ人教師ホーレス・ウィルソンは 第一大学区第一番中学(後の東京帝国大学の前身) の学生を集めて
「諸君、Baseballをやってみないか」と軽やかに言った。
「べいすぼおる?」何の事か分からず戸惑う学生達。
「まあ、いいからこのグローブをはめてみたまえ」
学生が見たこともない皮手袋の親玉のようなものをぎこちなく装着した瞬間、ウィルソンがやはり革を縫って作ったらしい球を軽く投げた。反射的にキャッチする学生。
「ほう、君には才能があるじゃないか」軽くウィンクするウィルソン先生。

全てはここから始まった。


(……まったくの想像であるが、当たらずとも遠からずのはずである)


   

 神田の学士会館の一角に「日本野球発祥の地」の記念碑がある。
 碑文によると、この地において1872年にアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが、学生相手に野球を教えた、とある。

 まあ、古きよき時代の微笑ましい逸話のひとつなのであるが、しかし良く考えてみるとこれは後の日本の民衆にとてつもない影響を及ぼした行動であった。

 日本人への野球の紹介があと10年、あるいは数十年遅かったら、どうなっていただろうか。「国民的スポーツ」は相撲だけだったかも知れず、あるいはサッカー・バスケットボール・バレーボールなどが取って代わっていたかも知れない。

 つまり安田猛や江夏豊や村田兆治らの力投は見ることが出来ず、それどころか王・長島さえ「だだのオジサン」であったかもしれないのだ。それだけではない、読売ジャイアンツという球団が創立されていなければ、当然のごとく一世を風靡したスポ根漫画「巨人の星」も発表されるはずがない。さらに言えば巨人の星の成功を目の当たりにした『月刊・ぼくら』の編集者が梶原一騎に連載の依頼をすることも無かったろう。


     

 そうなのである。「タイガーマスク」も1872年のホーレス・ウィルソンの営為が無ければこの世には存在しなかったのだ。もちろん新日本プロレスにおける佐山サトル扮するタイガーマスクも、この世に登場していなかった。当然のごとく、2代目タイガーマスクも、3代目タイガーマスクも、4代目タイガーマスクも、
ザ・タイガー も
スーパー・タイガーも
タイガーキングも
ザ・マスク・オブ・タイガーも
タイガー・エンペラーも
リングに立つ事は有り得ない事だったのである。

ちょっとゾッとする話ではないか。

ホーレス・ウィルソン氏には感謝と哀悼の念を捧げたい。




碑文

 この地には、元東京大学およびその前身の開成学校があった。 1872(明治5)年学制施行当初、 第一大学区第一番中学と呼ばれた同校で アメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏 (1843〜1927)が学課の傍ら 生徒達に野球を教えた。 この野球は翌73年に新校舎とともに 立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。 これが「日本の野球の始まり」といわれている。 76年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。
 ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、71年9月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日、77年7月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。
 同氏が教えた野球は, 開成学校から 同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門, 第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。
 2003年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。
 まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。

2003年12月  (財)野球体育博物館




                                      






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