9/14 次太夫堀公園 (世田谷区)   ヤマザキ報告 ( 失踪鳥捜索願 ・写真)



●次太夫堀公園

小田急線 成城学園前駅より
徒歩20〜30分


公園内の民家園は
 月曜休園

開園時間
 午前9:30〜午後4:30

    サングラスをかけたカナリヤ

 成城にある次太夫堀公園へ取材に行った。
 当然のごとく
ジダユウボリという語感に惹かれてのことである。

 小田急線の成城駅で下車し、街を歩き始めた時に取材時の相棒ザ・グレート・ムガを同行させるのを忘れていた事に気づいた。しかし、いつもカメラの入れてあるソフトケースにピピちゃんを待機させてあるので、今回はロケーション・ハンティング、ということにして、目的地へ向かった。



 成城の街を見物しながら、ダラダラと次太夫堀公園ヘ向かう。なるほど名高いお屋敷町だけあって瀟洒な建物が多い。蔦に被われた本屋さんのとなりにさんの隣に、未来的デザインの建物があったりして、「にゃ〜るほど」などと、一人ごちながら歩く。

( ひと眠りしてアップしたものを読み返してみたら、みっともないミスに気がついた。 上記の「本屋さんのとなりにさんの隣に」は当然であるが「本屋さんの隣に」の書き間違いである。もはや簡単な日本語も書けなくなってきている)


 しかしながら、ここはやはり日本なのであって、いくらカッコイイ建物を造っても、電柱と電線が景観をぶち壊しているのであった。



この項つづく

            

 9/19 (14日のつづき)

(前回のあらすじ)
おれは地下鉄・千代田線から代々木上原で小田急線に乗り換え、成城駅に向かった。途中、車窓から停車駅の駅名表示板を見ていると、日本語とアルファベットの他にハングル文字の表記が目に入った。小田急線沿線には韓国からの旅行者が多いのであろうか。ただし、下車駅の成城学園前駅にはハングル文字はなかった。成城は韓国人にキビシイ街なのであろうか。人口の8割がキムチ嫌いなのであろうか、焼肉やユッケはとうなのであろうか。ヨーロッパ・スタイルには揉み手をしながら平伏しているのであろうか。それとも両者を足してアフタヌーン・ティーならぬアフタヌーン・ビビンパなんぞを愉しんでおるのだろうか。どうでもよいことを考えながら、半覚醒状態でヨタリ歩きながら、次太夫堀公園へにじり寄って行くのだった。


 暑さのためか、生まれつきなのか集中力が3秒以上持続せず、地図を持参していたのにもかかわらず、えらい大回りをして次太夫堀公園にたどりついた。この公園は区立公園なので、入園時間の制限は無いようであったが、園内に併設されている「民家園」の開園時間は午後4時30分までとのことであった。素晴らしい事に入園料は無料である。





 民家園で特筆すべき事は、管理職員の応対に好感がもてる事である。親切でいて、しかも押しつけがましさや、入場無料だからといっての高慢さが無い。向こうから話しかけて来る事は無いが、質問をすると丁寧に答えていただける。いままでの
応対態度ベスト1は四谷の消防博物館の女性職員であったが、それに勝るとも劣らない。パッと見は野良着を着た、普通のお爺ちゃんおばあちゃんなんだけど。




 公園全体のコンセプトが古き良き世田谷の農村風景の復元と保存らしく、公園入口には稲穂が風になびいていた。


視力の悪いおれでも発見できた巨大バッタ



 送電線の向こうは、もう秋の空。


この項つづく


           

9/24 (19日のつづき)

(前回のあらすじ)

ようやく次太夫堀公園に到着した。東京を東から西へ横断してたどり着いた目的地は、町っ子からすると牧歌的雰囲気さえ漂わせた、のどかな区立公園であった。

考えてみれば世田谷区の砧緑地や馬事公園などは、おれの小学校時代には遠足で訪れるような地であった。だいたい新宿にしてからが、江戸時代には宿場町であったのだから、それよりも先の地は下町≒場末の人間にとっては辺境に等しい。「成城」という地名が一種の高級ブランド名になってしまっている事に、少しだけイラッとくるのはその様な理由があるからです。

擬似欧風建築ではなく、本来の田舎ぶりを復元してくれている次太夫堀公園は大変好感が持てた。それにしても「民家園」のような施設が無料で公開されているのは、さぞ区の財政が豊かなのであろうという事が推定できる。世田谷=お大尽町というのは事実のようである。

余談だが、昔、友人が世田谷区にアパートを借りて暮らしていた時、体をこわして働けなくなって、生活保護を受けて生きながらえていたことがあった。そして、アパート代が高いので、隣区の○田区の蒲○へ引っ越し、同じように福祉事務所に生活保護の申請に行ったら、区の職員に「そんなものは苦労のうちに入らないっ」と一蹴されてしまった事があったとのことである。ぎゃはは。税収の差というものであろう。







 この次太夫堀公園リポートの始めに書いた通り、グレート・ムタを同行させるのを忘れたため、ピピちゃんで代行し
今回はロケーション・ハンティング、ということにして、目的地へ向かったと書いているのに、どうして代理のピピちゃんでアップしてしまっているのか、訝しがる人は多いだろう。

 そのわけを書く。
 次太夫堀公園に行った数日後、日本列島に台風14号が襲来した。コースがそれたため、都内はたいした被害は無かった。台風が通過したと思われる夕刻、夕焼けが美しいのではないかと、急いで自宅へ戻った。カメラととピピちゃんを入れてあるソフトケースと、いつもは使わない一脚をひったくるように掴んで上野公園へと向かった。

 息を切らせて国立西洋美術館の前にたどり着くと、思った通り西の空は素晴らしい夕焼け劇場が開幕していた。しばらく見とれていたが、30秒時間が違うだけで空の色がどんどん変わっていくのに気づいた。われに帰って急いでカメラを一脚に装着させようとしたが、あせっているのでネジが思うようにカメラの凹側に入っていかない。えんえんとそんな事をしているうちにも刻々と空は輝きの表情を変えていく。

 やっとカメラを固定する事が出来て、動物園正門前方向へ走った。噴水前の広場には、そこが夕焼けを撮るベストポジションであるらしく、何人もの人々がカメラを構えていた。おれも夢中になってシャッターを切った。やがて空は朱色からブルーになり、深い藍色になって、闇が辺りを支配し始めた。


          極楽動物園  9月8日より転載

 そのとき
ピピちゃんを入れたソフトケースが手元にない事に気がついた。あわてふためいてその付近を探しまわったが見当たらない。はじめにカメラを1脚に装着した西洋美術館付近に置き忘れたのかもしれないと駆け戻る。無い。誰かが持ち去ったのか。しかし、もう周囲は真っ暗だった。一縷の望みを託して、噴水の前にある交番に、誰かが拾って届けていてくれないかと尋ねてみた。無駄足であった。

 翌朝、夜が明けるのを待って、上野公園へ行き捜索をした。ソフトケースの中身はピピちゃんとレンズを拭く布しか入っていない。つまり金目の物は無い。だから、拾った者がそこら辺の植え込みへ投げ捨てた可能性もあると思い、茂みの中に目を凝らして歩き回る。恥ずかしかったが3種あるゴミ箱を片っ端から漁ってみた。すべて徒労に終わった。



 その後、3日程連続で時間を作って上野公園へ出向いた。何処かに落ちていないか、捨てられていないか、半狂乱になって探しつづけた。懸命の捜索は現在に至るまで続いているが、未だに発見できずにいる。

 ハラキリブラザースの一番最初のメンバーであるピピちゃんを、自分の過失から行方不明にしたことは痛恨の極みである。思えば次太夫堀公園の取材にグレート・ムガを忘れていったことも、老人性のボケ。ピピちゃんを置き忘れたのも、同様の理由と思われる。

 過去に数年間、発展途上国を巡っては、その地の民芸品を買いつけるという仕事をしていた事がある。当然のごとく治安や医療態勢の不完全な地であり、大きなミスをすると命取りであった。命・金・パスポートの順で、それらを死守しながらの行脚をつづけていた。現在、一番大切にしているものは、このバカ・ホームページであると自覚しているのにもかかわらず、このような事態を引き起こしてしまった。ヤキが回ったとしか言いようが無い。



 ということで、ピピちゃん最期のロケ・ハン画像をアップする事になった次第。唯一の救いはロケ地が優しいおじさんおばさんおねえさんが管理する次太夫堀公園だったことであります。




ごめんね、ピピちゃん。

                  

この項つづく


                 

9/29 (24日のつづき)

 まー、最近のおれのボケぶりは凄まじい。以下、「黒澤明記念ショートフィルム・コンペティション」という短編映画コンテスト・イベントに行ってきた時のジャパニーズ・タカハシとの会話。

おれ 「あのさー、あの人だって良い短編映画とってたじゃない。あれ、あれ、あの人。ほら、えーと、20世紀後半にニューヨークとかで活躍した人」
タカハシ 「……」
おれ 「ほら、マリリンモンローのツートンカラーのイラストを並べたり、おんなじ缶詰の絵をずらっとこう……」
タカハシ 「…アンディ・ウォーホールですか?」
おれ 「そーそー! アンディ・ウォーホール、アンディ・ウォーホール。それからさー、日本のあの人だって、あの人あの人。わかんないかなー。ほら、おじいさんがリンゴの皮をむくやつ。おじいさんがリンゴの皮をずっとずっとむくやつ」
タカハシ 「……」
おれ 「すげー有名な人なんだけどなー。あの人あの人。おじいさんがリンゴの皮をむくやつ。おじいさんがリンゴの皮をむくやつ。その映画かどうか忘れたけど、『東京物語』とか撮った人」
タカハシ 「小津安二郎ですか?」
おれ 「そうそうそう小津安二郎! だからさー、才能を見抜くのは短編映画を作らせりゃ、勝負が速いと思うんだよねー。きっと若き日の小津だったら、素晴らしい短編映画を作ったと思うわけよ。小津とか、ほら、えーと誰だっけ今言ったヒト。ほらほら、えーと、20世紀後半にニューヨークとかで活躍した……」

 魯鈍の会話である。これでは、ボランティア精神で相手してくれる人以外との会話は成立しない。



(前回のあらすじの様なそうでない様な)
ピピちゃんを失踪させてしまったおれは、自責の念に耐えながら、ピピちゃんのカナリア・イエローの姿を捜し求め上野公園をさ迷いつづけるのであった。森の落ち葉の黄色にピクリと反応したり、路肩の健康飲料のキャップに駆け寄ったりする始末。果ては大きさの全然違う看板や工事用のロープにも、イエローが使われているというだけで視線が向いてしまうようになった。






まあ、しかし模型の鳥を一匹紛失しただけで大騒ぎであるな。これをして老醜というのであろうか。でもねー、文豪・百鬼園先生こと内田百閧ナさえ、その著書「ノラや」のなかで飼い猫の失踪にはらはらと落涙する様子を、自ら書き記しておられる。きっとダシール・ハメットだって、ペットのハツカネズミの死に慟哭していたに違いないのだ。こーゆーことも人間には大切な事なのだよ。と言ってみるテスト(←なつかしい)。

それで思い出した事がある。先月、日比谷のガード下で野良猫の写真を撮っていた時、背後に気配を感じたので振り返ってみると、一眼レフカメラを持った中年アキバ系男が立っていた。次に撮影するのは俺だから、早くどけ、と言わんばかりの妖気を発していた。撮影を終わらせた後、10メートルほど離れた場所から一眼レフ男を観察する。その男は至福の笑みを浮かべシャッターを切りつづけた。あまつさえ猫を撫でまわし、何事かつぶやく口の動きが見えた。


かなりの不快感を感じた。その理由はおそらく、数分前の自分を見たような気がしたからだと思われる。世界中で何万人もの無辜の民が非業の死を遂げている時に、高価なカメラをブラさげて、目尻を下げ猫を撫でまわしている中年男というのは、奇怪かつ不気味な存在であると思えた。タイムマシンにくくり付けて第二次世界大戦下の陸軍中野学校に送りつけてやりたいと思った。生涯、おれはコンパクト・カメラしか持つまいと決心した瞬間であった。

その数日後、小雨まじりの中、上野動物園内の「こども動物園」へ動物写真の撮影に行った。客はほとんどいない。だが園内の放し飼いの羊の群れの中に、ひとりの中年男が茫然と立っていた。何かこちらに話しかけるようなそぶりを見せた。相手にしなかったが、過日の日比谷での不快感と同じような感覚を覚えた。その不快感の理由も日比谷の時と同じで、自分の姿を見た様な気がしたのだと思う。





 とにかくピピちゃんのことは不覚であった。しかしこの「ハラキリブラザースのトーキョーサイトシーイングガイド」は不滅である。何故なら、このホームページ作成がおれの今生での仕事に他ならないからである。収入を得る、という事と結びついていない事が不幸ではあるが、「一体自分は何をするために生まれてきたのだろう」と闇の中を堂々巡りする人々が圧倒的多数の中、このような確信を持てたことは「人生一生スランプ」のおれとしては、僥倖としか言いようがない。




 不景気な話ばかり書いたが、ここで皆様に嬉しいお知らせがある。このサイトでも何回か紹介させてもらった三遊亭遊史郎さんが、晴れて真打に昇進されました! 前述の言い方をなぞらえれば、「今生での仕事=収入を得る仕事」になっていて、またその才に恵まれている、という幸福×3人生である。そのような人にはその様な人なりの苦労があるのだろうけど、まことに羨ましい師匠の誕生である。真打昇進披露興行が10月4日に行なわれるとのこと。今行っとけば、孫子の時代まで「おれは(わたしは)遊史郎の真打披露興行に行ったもんだ」とひけらかす事が出来る。ぜひ駆けつけて幸せのひとかけらでもムシリ取ってやろうじゃござんせんか。




 よろしくよろしく。

この項おわり








今週の東京 WEEKLY TOKYO
ハラキリ・ブラザースのトーキョー サイトシーイング ガイド

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