7/4 日比谷 (中央区) |
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ヤマザキ報告 |
( 低気圧低血圧低機能障害手記 ・写真) |
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●日比谷シャンテ前広場
JR有楽町駅 日比谷口より
徒歩3分
東京メトロ 日比谷駅 出口4より
徒歩20秒
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Samuraiと極道とマムシの兄弟と怪獣と
かつて「日比谷映画街」と称された地(細かい事だが、どうして映画館街ではなかったのだろうか。もーどうでもいいことだが)、日比谷シャンテ前広場には東宝映画のドル箱スター(←死語?)のゴジラ像が辺りを睥睨し、歩道上には文字通りキラ星のように輝いたスター、名優たちの手形がはめこまれている。
以下、明日以降につづく。
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7/5 (昨日のつづき)
どういうわけか東映・大映のコワモテ系の手形もあったので、喜んでデジカメに収める。
こちらは東宝コメディアン系
すべての手形レリーフを見ようとウロついていると、端の方に1つだけ金色の版があるのに気がついた。
以下、明日以降につづく。
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7/6 (昨日のつづき)
その金色の手形レリーフはトム・クルーズのものであった。
しかし、気になる
以下、明日以降につづく。
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7/7 (昨日のつづき)
のは
以下、明日以降につづく。
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7/8 (昨日のつづき)
、
以下、明日以降につづく。
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7/9 (昨日のつづき)
日本人の役者の手形が銀版で、アメリカ人俳優のそれが金色の理由である。
何となく銀よりも金の方が上というイメージがある。それゆえにトム・クルーズ氏にまったく罪はないにもかかわらず、
「何様だと思っていやがる」
と、見当違いの激情がほとばしり出そうになる。
「LAST SAMURAI」のトム・クルーズは
「極道シリーズ」の若山富三郎より上なのか?
「座頭市シリーズ」の勝新太郎より上なのか?
「まむしの兄弟シリーズ」の菅原文太より上なのか?
しょんにゃことはじぇんじぇんにゃーい。
あっしのように、15の時から、いたずらをしてきた男の目はくらませねえ。 |
(『続・網走番外地』 より) |
想像というより勘ぐりであるが、このシャンテ前広場に手形歩道を作った東宝系企業の方々自身に、日本映画よりハリウッド映画の方が優秀だとの感覚があるのではないか? ま、これはしかし日本人の謙譲の美徳の発露だと解釈しておこう。
以下、明日以降につづく。
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7/12 (9日のつづき)
この際だからだから、以前から気になっていたことに触れておく。
芸能業界にたずさわる人の使う言葉で「大女優」というのがある。頻繁に使われるようになったのは、この4〜5年の間のように思う。以前からあった「名女優」よりも1ランク上、といったニュアンスを受ける。多くの場合「あれだけの」もしくは「あれほどの」が前に付き、「あれほどの大女優なんですから……云々」といった具合に使用される。
まあ、「スター」に対する「スーパー・スター」のようなものであろう。「大女優」がアリなら「大俳優」とか「大男優」があってもいいような気もするが、そうは使われないようだ。不思議といえば不思議である。
しかし、その耳慣れない新語・造語に対して、文句をタレようという気はない。ひっかかっているのは、その「名女優」より一段上の、人間国宝級であるはずの「大女優」を、テレビドラマで主役を張ったことがある中堅女優ぐらいに対してまで、「あれほどの大女優」を乱発する事である。ワイドショーの司会者やコメンテーターとかいう人々は言うに及ばず、いつもは辛らつな発言をする批評家までもが、何の注意もはらわずに、平気でチンピラ女優に毛の生えた程度の者を「大女優」と言って得々としている。
お世辞、おべっかの類は、言うほう言われるほうの当事者同士には、心地良いものなのだろう。でもそんなに誰も彼もに対して使っていたら、女優は新人女優と大女優だけになってしまうのではないか。
そこで、おせっかいは充分承知の上で、おれが「大女優」と「名女優」の線を引いてやる。
実力・実績・人気・文化的貢献度などから総合的に判断して
森光子・山田五十鈴レベルを「大女優」
と言い、それ未満は、「名女優」もしくは「女優」である(キッパリ)。
な、すっきりしたろ。 これにて一件落着!!
落着はしたものの、『日比谷』の項は、明日以降もつづく。
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7/19 (12日のつづき)
今回、日比谷に足が向いたのは、東京宝塚劇場が日比谷映画街にあった事を思い出したからである。
先月の六本木の項を書く際、「ネチョリンコン」が平仮名なのかカタカナであるか、うろ覚えであったのでGoogleで検索をした。
「家庭の事情 ネチョリンコンの巻」で調べていたところ「宝塚映画ーー作品リスト」というページに行き当たった。「過去に宝塚映画製作所で作られた作品の数々です」との説明の後に、一覧表が附されていた。表の31番目に「家庭の事情 ネチョリンコンの巻」がある事を確認した。
しかしそのことよりも、おれを狂喜させた発見があった。作品リストの1番に「山と少女」(1939年制作)という作品があり、出演者名のトップに
鶴万亀子
という名が記されていたのだ。宝塚映画の作品なので、その主演女優さんは、おそらく宝塚歌劇団出身の歌姫と思われた。昔の事とは言え、あまりにインパクトのある御名前だったので、検索してみたが、本当に鶴万亀子さんは実在し、宝塚の大スターであられたようであった(というか、単におれが無知だっただけであるが)。
それから3日間、頭の中で「鶴万亀子、鶴万亀子、鶴万亀子、鶴万亀子、鶴万亀子」が飛び交いまくった。ただそれは決して不快な感覚ではなく、いつか書いたノゲイラ兄弟の「ホドリゴ・ホジェリオ」にも似た、癒しのマントラのようであった。
大戸屋でメシを食っているときも鶴万亀子、山の手線に乗っているときも鶴万亀子、シャワーを浴びてる時も鶴万亀子、つまり日常すべてが鶴万亀子になっていた。それは至福の日々であった。
だがその蜜月は長くはつづかなかった。4日目の午後、ふと気がついた。鶴万亀子は「鶴万 亀子」ではなく「鶴 万亀子」なのではないか? との疑念が脳裏をよぎったのだった。あせって「つる まきこ」で検索してみたところ、はたしてその通りであった。
おれの歌姫への思慕の念は、あっという間に消え去った。考えてみれば、いかに70年近く昔とはいえ、宝塚のスターが、
「つるまんかめこ」
などと名乗るはずはなかったのだ。
失恋した時のような虚しい時が流れた。
落ち込んだ気持ちが回復してくると、ちょっと不思議な事に気がついた。「つる まきこ」自体が「蔓 巻子」の掛け言葉ではないのだろうか、ということだった。きっとそうだ、昔の人は頓知がきいてるからな。「鶴 万亀子」が「蔓 巻子」のシャレと言うか言葉遊びだった可能性は大きい。
だから、
鶴 万亀子 (つる まきこ)が
↓
蔦 唐鞠子 (つた からまりこ)
↓
縄 死薔薇糲子 (なわ しばられこ)
↓
聖 獣学園子 (せい じゅうがくえんこ)
↓
放 送禁止子 (ほう そうきんしこ)
↓
北 兆戦脱鱈死刑哀号子 (きた ちょうせんだったらしけいあいごうこ)
になっていたって、異常な事ではないのだ。
かの伝説の雑誌「ガロ」の元編集長・南伸坊氏の名言に、
「面白ければ良いという訳ではないが、つまらないのはイヤである」
という名言があるが、どうもこちらは、寄る年波で脳が無意識に「面白い事が正しい事」と判断するようになってしまっているようである。
近い将来 「THE LAST SAMURAI」のクレジットタイトルのCastにKoyukiの文字があったとしても
三島☆ド根性の助子
と認識してしまうような事が必ず起きるはずである。
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