時の流れは最強のパワーである 正岡子規、明治中期に俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など、多方面に渡り創作活動を行った、言うまでもなく日本文芸史に名を残す才人である。 今から約100年前の子規庵には、若き日の夏目漱石・森鴎外・高浜虚子など、そうそうたるメンバーが集い、句会が催されていた。当然それはサロンというべき場になり、後に高名になる才能豊かな青年達の、能力開花に多大なる貢献をする事になる。 子規は21歳の年に初めて喀血(結核)をし、29歳でその病魔は脊椎カリエスに進行した。膝の関節が曲がったまま伸ばせなくなり、特別注文で凹型の座卓を造らせ、そのへこみの部分へ足を入れ執筆活動を続けた。 カリエスの末期の症状は凄まじく、体の中に溜まった膿が皮膚を突き破って噴出する。出来た穴を見て、驚愕して慟哭する子規。むろん苦痛は想像を絶するようで、
おれが末期の子規の文章で最も感動したのが
と、ここで感動の涙にくれている読者諸姉諸兄には、誠に申し上げにくいご報告がある。 子規庵周辺は、明治の世とは様変わりし、現在は何とラブ・ホテル街の真っ只中にあるのだ。 約百年前に正岡子規が、苦悶し呻き声をあげ凄絶な闘病生活を送っていた同じ地域で、現在は、また別種のとんでもない呻き声が、昼といわず夜といわず、各室内に轟き渡っているものと思われる。子規先生も草葉の陰で苦笑している事であろう。
子規庵から徒歩1分ほどのところに昭和の爆笑王・林家三平の記念館である「ねぎし三平堂」がある。
三平さんはねー、優しい人だったよ。上野公園を散歩している姿を、われわれ悪ガキ連中に発見され、ウケようとした奴がゴリラのマネなんかをしてまとわりついても、「学校でたらウチの弟子になんなさい」とニコニコ笑いながらおっしゃっていたよ。超々有名人なのに、気取ったところや偉ぶったところは、微塵も無かった。だから下町のガキはみんな三平さんが大好きだったよ。 享年54歳というから早死にの部類なのだろうけど、さすがに正岡子規の35歳で没という、あまりに短い生涯と比べると、才能を存分に開花させ、功成り名遂げた大成功者という感はあるなあ。それでも館内に展示されていた日記を見ると、晩年まで本格的に古典落語に没頭するべきか「三平落語」を全うするかで、心中は揺れておられたようだ。 まぁーいろいろな人生があるけれど、人間の悩みは尽きないようである。だから もうホントに大変なんですから、皆さん、体だけは大事にして下さいよ! |
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トンガリ頭の防人たち
ここは東京湾のもっとも奥まった海岸のひとつ、東雲(しののめ)水辺公園である。つまり銀座から10数分でこの風景の中に身をおく事が出来るのである。東京が海辺の街であることをいやでも再認識させられる。 この波消しブロック群は、東京という自己制御が出来なくなった、巨大なモンスターのアキレス腱を、超微力ながら陰でサポートしているのだ。 そう思うとコンクリートの塊に愛おしささえ感じる。海岸の最前線で強大な敵を震えながら迎え撃つ、防人の隊列に見えてくるではないか。 彼らは微動だにせず待ちつづける。徒手空拳で市民の生活を守るために。いや、手も拳も持たず、ただ身を挺するだけで敵に立ち向かうために。
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3/23 19日の土曜日の午後11頃に、ホームページの編集作業をしようとしてパソコンを起動させたところ、一番始めに現れるマイクロソフトの画面が、ギュイイイーンと歪み、1億3千万光年の闇の中に拡散して消えていった。
わっわっわっと驚愕しながら、スイッチを切り、電源を引っこ抜いた。 パソコンが壊れるときは画面が真っ暗になるのかなとは思っていたが、ケムリを吹くとは概念の外だった。ドリフのコントみたいである。 即、そのパソコンを作った某有名メーカーに電話をした。めんどくさいのでそれ以降の経過ははしょるけど、今日やっと修理が終わるまでの代替モニターが到着した。 パソコンが使えない最中に分かった事は、おれの生活には、すでにパソコンが深く入りこんでしまっているということであった。電子メールが使えない、インターネットを閲覧できない、という生活はもうかなりキツイ、ということを知らしめさせられた(←日本語が変?)。 「ギ装置Rの右脳と心中」 のギ装置Rさんの結婚式が迫っていたはずだが、無事盛況のうちに御開きになったのか、 「Hannku's Holy Mountain」 のハンクさんは限りなき闘い・絶叫編というような物を書かれておられるのか、 「一円大王日記」 の一円大王様の蔵にアトウカイはやってきたのか、 「★あいつだらけ★」 のあいつ=おかよさんはイチゴ狩りで苺を存分に食えたのか、 「鬼界浩巳事務所へようこそ」 の鬼橋日誌ではまたまた事件が勃発しているのか、 「経田ギョギョーム」 のササキさんは復活しているのか、 「だいすきでだいきらいで透明で」 のマチルダ猫子さんの学園生活ははじけまくっているのか、 「嵯波はづきオフィシャルサイト」 の嵯波はづきさん (この人は我が青春時代の恩人) の体調は回復に向かっておられるのか、 「Shinya Fujiwara Official Site」 の大写真家・藤原新也氏は警句に満ちたお言葉を吐きまくっているのだろうか、 たった数日間パソコンが使えなかっただけで、気になる事が山積になった。 でもそれはいいことだろ〜♪(保毛尾田保毛男 調) 気を取り直して、というかクサッてもいないけど、これからもバカなホームページづくりをしていきますのだ。 |
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山門の弾痕は江戸の意地 谷中経王寺。山門には明治維新のすったもんだの際の銃弾の穴が空いている。この弾痕は案内板によると
経王寺とて名刹であり、穴の空いた山門を修理するくらいの財力は、当時も現在も保有しているはずである。が、頑固にも未だに改修・補修などはなされてない。早い話が 「もー、決着はついているのに、しつこく追いかけてきて、あまつさえ寺院(宗教建築)を破壊するなどというのは野暮の骨頂であり、末代までこの愚行を満天下に晒しものにするんだもんね」 てえことだ。江戸という土地の美意識の最たるものは「粋か野暮か」であり、粋でさえあれば、ほとんどの物事は喝采を受ける(少なくとも容認はされる)。野暮というのは、いくら武力が強くても金持ってても、もうほとんど猿の妄挙あつかいである。 当時の江戸庶民からすれば、官軍なんぞは、箱根のお山の向こうから攻めて来たわけ分からん集団であり、永年馴染んだ江戸城の将軍様の肩を持ちたかったことは容易に想像できる。 下町気質の「保守的なのに反権力指向」(ギャハハ)という特異なセンスは、この辺が一要因となって形成されたものかもしれない。
●日暮里食品玩具問屋街跡地 [地図B] そして詩が残った 去年の8月21日に既報の通り、日暮里食品玩具街は消滅した。現在は見事にサラ地となり、新しく出来るビルの工事が始まっている。 未練がましく問屋街のあった場所の近くに行ってみると、鉄板の塀に移転のお知らせや、閉店の挨拶が何枚も貼り付けられていた。下の写真は問屋街入口の角にあった立ち食いそば店「六文そば」の閉店の言葉である。
ううむ。このように切々と感謝の念を述べた立喰ソバ屋閉店の辞を他に知らない。これは詩人や文学者には絶対に書けない詩である。このような文言を、ソバ屋の店主に書かせるような環境・風土を破壊してしまって、本当に良かったのか? 感動のあまり 「この世の果てまで / 日暮里バージョン 」 を作ったので ( 演奏・唄 ジャパニーズ・タカハシ)ぜひ聴かれたし。 |
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4/7 谷中・日暮里 (荒川区)
更新しないで粘っていたら桜が咲いた。JR日暮里駅と山門に銃痕の残る経王寺の間に、月見寺の異名を持つ本行寺がある。境内の墓地の中央の枝垂れ桜が、現在見事に咲き誇っている。 ( 一昨年は入場料まで払って見に行った六義園の枝垂れ桜が未開花で、憮然としてひき返してきたのに、今年は無料で堪能することが出来た) まんま 「桜の樹の下には屍体が埋まっている( by 梶井基次郎)」 状況である。 |
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