9/11 (8/30「東上野・下谷神社」のつづき) 灯台もと暗しとはよく言ったもので、東京の古い建物が再開発で破壊されるたびに嘆いてきたが、下谷神社のまわりは戦前からの木造家屋の宝庫であった。 東京大空襲(註)で焼けなかった木造建築がいまだに実用家屋として健在である。第二次世界大戦以前の建物であるから、おそらく、大正年間に建設されたものと推定される。
しかし昔の大工はたいしたもんだね。大切に使えば80年以上も人が暮らせてしまうのだから。誓って言うが、これらの建築物は、太い檜の柱を使用している家は一軒もない。はっきり言えば安普請(失礼!)なのに。木造三階建て家屋さえ散見される。 おれが子供の頃に(1960年代)遊んだ路地もまだけっこう残っている。これが本当の東京である。テレビドラマなどでよく見かける、わけ分からん高層マンションで夜景を眺めながら、ガラス・テーブルに向かいワイングラスを傾けるなどというのは、テレビ局が作った「地方人があこがれる東京」のインチキ幻想である。 この地域に昔の庶民の家屋が残った大きな理由は、先にも述べたように、空襲で焼けなかったからであるが、そのため道幅が昔のままの6m以下なので、3階建て以上のビルが建てられないということも理由の一つである。で、地元民としては何不自由なく、焼失を逃れた我が家で生活できるんだから、何も建て直しなんざするこたねえ、ってことで、ずーーーっと来ちゃったという事なんだろうな。
この項つづく |
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9/17 (9/11のつづき) 東上野・稲荷町
銭湯の一番風呂というものは、大変気持ちが良いものである。 脱衣所から硝子の引き戸を開け、洗い場へ入る。積み上げてあるオケとイスを取り、まだ乾いたままのタイルの上を歩き、適当なカランの前に座る。湯と水のあんばいを、ややぬるめにしてかけ湯をする。タイルの上を本日初めての湯が走る。 そして、まだ誰も入っていない湯船へ。一番風呂の湯は熱めであるが、これをグッと我慢して肩までつかる。見上げれば天上近くの高いところにある窓から、午後の陽射しがさし込んでいる。グフェー。極楽。 おれは学生時代、深夜のバイト(地下鉄補修工事)をして、朝方家に帰るという昼夜逆転生活をしていた。昼過ぎに起きてきて軽い朝食(?)を摂り、湯屋へ行く。だから数年間この贅沢な一番風呂生活が出来た。 いつもの神吉湯が休業日の時は、ひとつ向こうの寿湯へ足を伸ばした。寿湯での入浴には、ある楽しみがあった。 ここには近所に住んでおられた林家正蔵師匠が通って来られていたからだ。おれがしばしばお見かけした頃は、すでに独力での入浴が出来なくなっていて、両脇をささえられて(片方をお弟子さん―孫弟子か?― もう片方を奥様と思しき着物を着た女性)の入浴風景であった。
一緒に湯に浸かっている近所の顔見知りらしい人が、近頃のお加減はどうですか、と問うと、あの老人特有の震えるような声で 「」 という風におっしゃっていた。たわいもない会話から地元民から愛されていた事はいつも感じた。 こういう時、「ああ、今おれは正蔵と一緒に風呂に入っている」と思い、知らずのうちに顔がほころんだものである。
高座での正蔵師匠は、おっかない人なんだか可笑しい人なんだか判らないところがサイコーであったな。ご本人は不本意かもしれないが、晩年、声の震えがひどくなってからは、何を言ってるんだか判らないが、古典落語なので間と語調で成立させてしまうという、シュール落語とも言うべき、実はかなり深い示唆にとんだ芸を演じておられた。 正蔵師匠は最晩年スジを通して、林家の本家(三平さんち。こぶ平がいるところね)へ「正蔵」という大きな名を返し、自らは「彦六」を名乗った(『襲名』というのとはちょっと違う感じ)。 彦六 何と云ふ軽やかな爽やかな語感であらう (どう云ふわけか思はず旧仮名遣ひになってしまふ)。正蔵、いやさ、彦六が青年の志を持ちつづけた証左に他ならない。トンガリ正蔵の心意気。 粋だねぇ。
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不屈の出前持ち どうもおれの遅筆癖は困ったものなのだが、9月8日に催された「本法寺寄席」について書く。 と言っている端から話は2週間前どころか四半世紀よりさらに以前に時空ワープする。 その頃おれは中学生だった。同級生に山口君という荒川区の町屋から、我が台東区の御徒町中学に越境入学してきている友人がいた。あるとき彼から「落語を聴きに行かないか」との誘いを受けた。なんでも彼の父親の所有するアパートに落語家がいて、その人の部屋に行けば、寄席の招待券がもらえる、とのことであった。 数日後われわれはその落語家さんの住んでいる部屋に向かった。山口君の案内でそのアパートに行ってみると、「アパート」とは名ばかりで、京成電鉄の高架下の倉庫の一部を人が住めるように改築した空間であった。 倉庫の扉を開けて中に入ると、中は真っ暗だった。山口君は慣れた足取りでどんどん中に入って行き、2階に通じる階段を昇っていった。おれもこわごわと彼の後に付いて、足元もおぼつかない階段を昇った。上がりきったところにベニヤ板で作った引き戸があり、山口君はその戸をノックしながら「ショーユーさん、ショーユーさん」と言った。いくら呼んでも返事は無かった。彼がカギの掛かっていない引き戸を開けてみると、四畳半の室内には誰もおらず、カビ臭い空気の中で裸電球が寂しげにぶら下がっていた。家具はほとんど無かった。 おれは芸能界に生きる人の、表の華やかな世界とはかけ離れた暮らしぶりを目の当たりにして、修行中の芸人さんの大変さを思い知った。その後何日かして、山口君がチケットを貰ってきてくれた。そのチケットには「池袋ピ−ス座 ひよこの会」と印刷してあった。「ショーユーさん」は「笑遊」さんのことだと判った。今から考えると若手の勉強会のようなものなのだったと思われる。 山口君は切符を3枚貰ってきたので、川口君という同級生も一緒に行くことになった。川口君、通称カワちゃんは気のいい子で、優等生グループ、不良グループ、運動部系グループ、そしてわれわれ劣等生おふざけグループのどことでも親交があった。おそらく彼の裏表の無い正直な性格が、誰にでも好かれたという事なのだろう。しかしピ−ス座に行ったときには、それが裏目に出た。 (この項つづく) |
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9/28 26日のつづき ピース座の入口には下足番のおばさんがいた。札を貰い、畳の上に敷いてある座布団に座る形式の客席であったので、最前列というのが正しい言い方なのか分らないが、一番前の中央に中学生三人は陣取った。客はおれたちも含めて10人ほどだった。 ほどなく開演時間になり、最初の落語家さんが咄を始めた。しかし、ものの10分もしないうちにカワちゃんがおれに耳打ちをして来た。 「つまんないよ。帰ろうよー」 最初の演者が下がると、カワちゃんは足を投げ出し、両手を体の後ろについて、あからさまに退屈である事の意思表示をした。そのときおれは「無理だったか」と思った。カワちゃんはいい奴だけど、陸上部の長距離の選手で、基本的に体育会系の人だったのだ。 今でも、落語を聴かなけりゃ生きてる意味が無いという人と、一生に三分以上聴くつもりは無いという人がいる。(ジャズやプロレスと似たようなジャンルなのかもしれない)彼は典型的な後者だったのだろう。 ごねつづけるカワちゃんをなだめすかし、笑遊さんの出番を待った。しかし彼の「帰ろうよ」攻撃はだんだん激烈さを増していき、ささやき声がすぐ目の前で演じている噺家さんに聞こえてしまうんじゃないかとヒヤヒヤして、こちらもまともに咄を聞けない状態になってしまった。そこで山口君とおれはカワちゃんに「笑遊さんが出たら帰ろう」と言って、彼を黙らせた。 そして、ようやくお目当ての三遊亭笑遊さんの出番になった。始めて見る笑遊さんは坊主頭に黒縁メガネ、ひょろりとした頼りなげな体型で、見るからに修行中の芸人さんという感じであった(↑ウソ。手加減して書いてしまった。本当は奉公中の丁稚か、サナトリウムに入院中の結核患者のようだった)。 咄が始まって五分くらいした頃、カワちゃんがひときわ大きな声で「帰ろっ」と言った。もはやささやき声ではなかった。どうやら彼はおれたちの「笑遊さんが出たら」を、出番がすんだら、という意味ではなく、一目見たら帰る、という事と勘違いしたようであった。 気の優しい山口くんがおれを突っつき、出口を指さした。退却の合図であった。そして、ああ、何ということか、おれ達三人は熱演中の笑遊さんの2メートル前で立ちあがり、くるりと体を翻し、出口を目指したのだった。入口の下足番のおばさんが「あらー、ボクたちつまんなかったー?」と言った。おれは「いや、その、あの・・・」と言い訳にもならない事をモゴモゴ言って、そそくさと表通りへ飛び出した。その直前、もう一度、ちらりと高座を振り返ると、笑遊さんは何事も無かったかのように咄をつづけられておられた。笑遊さんが演っていた演目は、これは何故かはっきりと憶えているのだが「湯屋番」だった。 カワちゃんは池袋の駅へ行く途中でも、しつこく面白くなかったと文句を言いつづけた。 (この項さらにつづく) |
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9/29 (28日のつづき) さすがに懲りたのか、その後、山口君は落語会に誘ってくれなかった。 それにしても、チケットをめぐんでやった貧乏小僧共に、目の前で席を立たれた笑遊さんは、さぞ不快であったろう。 しかし笑遊さんはその数年後から、ときおりそのお姿をテレビで見かけるようになった。それは落語中継ではなく、テレビドラマのチョイ役としてであった。その役どころは、たいていの場合、自転車に乗ったソバ屋の出前持ちに扮した笑遊さんが、誰かを追いかけている最中のドラマの主人公格に、自転車ごと突き倒されて、見事にカッコ悪くひっくり返り、半泣きになって「何すんだコノヤロ〜!」と叫ぶ、というようなものであった(ソバ屋以外にはオカモチを持った中華料理店員や、洗濯物を自転車の荷台に満載したクリーニング店員)。 あの「役どころ」はほとんど笑遊さんの独壇場であった。芝居をしてるんだかしてないんだか判らない、虚実皮膜と言っていいくらい絶妙であった。おれも高座姿ではないにしろ、笑遊さんがテレビに映ると嬉しかった。 だが時が過ぎ、徐々に出前持ち・御用聞き・配達人などの人物が突き飛ばされるというシーンが、ドラマの演出から少なくなってゆき、それとともに笑遊さんのTV画面への登場もなくなっていった。そしておれも青春時代まっ盛りだった事もあり、笑遊さんのことを思い出す事も無くなった。 そんで乱暴だが、話は突如、現代に戻る。 9月4日にジャパニーズ・タカハシよりメールがあった。 確かに田原町なら歩いていける距離(徒歩約15分)だ。行ってみようと思った。 それで「本法寺寄席」について検索してみると、本法寺寄席とは三遊亭円遊が主催している落語会であった。でも、とうに円遊は亡くなっているはずだし、かつて「笑点」に出ていた小円遊さんも死んじゃったし、誰が円遊を継いだんだろうと思い、さらに検索をつづけた。すると わわわわわわわわわわわわわ あ、あの笑遊さんが大出世して「円遊」になっていることが判った。ひょえー。 で、行きました。ええ行ってみましたとも。予約も入れてなかったし、前売り券も手に入れてなかったので、おれにしては珍しく開演の30分も前に本法寺の門前に到着していた。境内に入ろうとすると、本堂の前に一人の恰幅の良い初老の男が、Tシャツ姿で立っていた。 ・・・・・・「笑遊さん」だ。 すぐに分った。体型は変わっていたし、威厳さえ漂わせておられたが。 のどがカラカラになり、四肢が硬直した。数秒間、茫然としていたが、出来そこないのロボットのような歩き方になりながら、今は円遊師匠になられたかつての笑遊さんの前に立ち、「あ、あの予約してないんですけど入れますか」とだけ、しぼり出すような声で言った。 師匠はいたって気さくな様子で「ええ、大丈夫ですよ。どうぞこちらへ」と受付まで案内してくれた。受付の係りの人にテキパキと指示をして、次回の案内状送付する手はずをしてくれた。 会場内の一番端の最後部に座り、渡されたプログラムを見る。 わわわわわわわわわわわわわわわわわ 30年以上前、池袋の寄席で無礼にもわれわれが席を立った時に演じられていた咄、「湯屋番」が、事もあろうに遊史郎さんが演じると載っていた。 どうなっておるのだ。 天はおれに何をせよと言っているのだろう。いや、ただの偶然にしろ、そこから何を学べばよいのか。 おれのヒョータン脳では全然わからない。 (この項まだつづく) |
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10/6 (9/28のつづき) イマジンと明烏
この項おわり |
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