4/1  西新井  西新井大師 ヤマザキ報告 (徘徊雑記・写真)


西新井大師

 
東武大師線 
  大師前駅より 徒歩3分


水屋の童子は力持ち


 
たまには平穏なリポートを書きたい。

 東部大師線・大師前下車、徒歩三分の西新井大師を訪ねた
 西新井大師の門前町は、柴又帝釈天(西に約十キロしか離れていない) のそれと比して規模が小さく、あたりまえだが、寅さん饅頭も、寅さん煎餅も、寅さんの銅像もない。

 しかし、あるべき門前町の姿がそこにあった。
 ここの様子がいい、そこのあんばいが素晴らしいと指さすことは出来ぬが、さほど広くはない門前町全体の、リアル・レトロ感は心をなごませてくれた。


 
平日は参詣者も観光客も少なく、参道沿いにある、だんご屋・うなぎ屋・せんべい屋・ダルマ屋などの生計が立つのだろうかと、よけいな心配をする。
 おそらく、よそ者の落とす金に頼っているのではなく、地域住民との経済活動で商売が成り立っているのだろう。いやしかし、
週に二個ずつダルマを買って帰る主婦というのも、滅多にはいないだろうしなあ。

 と思っていたら、西新井大師のスケジュール表の掲示が目に入った。各イベント日が掻き入れどきで、後はのんびり、というライフ・スタイルなのだと合点した。



 西新井大師の境内には立派な本堂があり、塩地蔵、三匝堂(さんそうどう)、六角堂、牡丹園、日本庭園などを巡るだけでも穏やかな清々しい気持ちになれる。



 なかでも一番気に入ったのが、手を洗い、口をすすぎ、心身を清浄にするための、水屋である。水桶の脚にあたる部分に童子の彫刻がなされていた。水桶をかつぐデザインになっている。





 何人の子どもが、この童子彫像に微笑みかけた事だろうか。
 その子どもたちは、青年になると童子像には一瞥もくれなくなる。
 しかしまた次の時代の子ども達が、童子の姿態を見つめるのだろう。

 子どもたちは、大人になり、老人になる。
 童子はずっと水桶をささえつづける。

 いつか、かつての幼子が、遠い日を思い出して、そっと頭をなでてくれるのを待ちながら。


 西新井大師の境内を出て、再び門前町をウロつく。環状七号線の大通りに出てしまったので、煙草に火をつけ、歩道の端にしゃがみこみ、地図本を開き、自分の位置を確認する。

 そのとき、おれの頭上で「ダンナさんダンナさん、ちょっといいですか?」という声が聞こえた。声の主は警ら中の警察官だった。ただし、その言葉はおれに向けられたものではなく、そばを歩いていた中年男に対して発せられたものであった。


 警官に職務質問されている男は、外見上は気弱そうな人物で、おれには彼のどこが警官の注意をひいたのか判らなかった。そのときのおれはウンコ坐りでタバコを吸い、本を読んでいる、という、アヤシさではこちらのほうが上のような気がしたが、文句をつけるわけにもいかない。

 いつも何にもしてないのに、警官・警備員・ガードマン等に難癖をつけられるのが常なのに、


これはこれで、どうなっておるのだ。

 
こんなことは、このホームページ制作のために、意識的に東京のあちこちの取材活動を開始してから、初めてのことだ。どうやらおれはこの西新井大師の門前町になじんでいる様である。

いいとこみつけた!



( この項つづく )


4/9
4/9 東武大師線 大師前駅 (4/1のつづき)



                   カブキくんのいる風景   東武大師線 大師前駅構内

大師前駅へは、東武伊勢崎線西新井駅で大師線に乗りかえる。
路線図を見ると一駅区間分支線が延びていて、二両編成の列車が運行している。

まあ、単線なのは当然だと思うが、あまり知られていないが、大師前駅は無人駅である。
駅舎は無人駅といっても、コンクリート作りのビルのような建物なのだが。

大師前駅から乗車する場合、切符は発券されておらず、運賃は西新井駅の自動券売機で精算する。

ということは、西新井駅まで行ったのなら、そのまま電車を降りずにもう一度大師前駅に戻れば、タダ乗りができるということである。

しかしこの奸計の最大の欠点は、いつまでたっても家に帰れない事にある。ここはセコイことを考えずに、まともに運賃を払うべきであろう。


プラットホームの窓から西新井大師光明殿を望む
                 


この項つづく


4/12
4/16  東武伊勢崎線 西新井駅構内


  スパゲッティと言ってくれ


 
スパゲッティ (もしくはスパゲティ) のことを「パスタ」と言われると、脳に鳥肌が立つ。

 「パスタ」とはイタリア料理で使う、小麦粉を水でこねてどうこうした食材の総称である。100ぐらい(あるいはそれ以上)の種類があり、マカロニもラザニアもペンネもラビオリもパスタである。

 たとえば、下着のパンツの事を種類別に「ブリーフ」と「トランクス」と分けて言うのは理解できる。またズボンのことを「トラウザース」とか「パンツ」とか言うのも、「パンツ」を茨城弁のイントネーションで言わなければ、これも許す。

 しかしスパゲッティに関しては、「パスタ」と言う奴の気が知れない。わざわざ分かりにくくしてどうする。

 どうしてスパゲッティのことをパスタと言うようになってしまったのか、正確には判らないけれど、勝手に推定すると、10年ほど前にイタリア料理ブームがあり、その時に「イタメシ」などと
声に出すと死にたくなる日本語平気で言いふらしていた輩が、イタリア料理店でメニューを見て、
「スパゲッティってイタリアじゃパスタって言うのかあ。おれも今度から『六本木のイタメシ屋のパスタがさあ・・・』とか言おうっと」
というような具合で広まっていったのではないのだろうか。


 きっと「カッコイイ」だとか「ハイカラ」とか「オシャレ」だとか(ひえ〜〜)思ったんだろうな。


 
ヒャクショー註1だとか、カッペ註2 とかいう単語が頭をよぎる。

註1 第一次産業従事者に対しての蔑称に非ず。感性の鈍さとその無自覚に対しての罵倒詞である。
先祖代々東京生まれのハイ・ソサエティにも「ヒャクショー」はいる。ごろごろいる。
註2 地方在住者および地方からの移民に対しての蔑称に非ず。主意は註1と同じ。
吉野屋で、今はなき牛丼のドンブリの上を覆いつくさんばかりに紅生姜をのせ「タダだものー」などとうそぶく種の人間を指す。

 
そこで西新井駅構内のカフェテリアである。
 ここでは見事に「スパゲッティ」と表記されており、食品見本の前には、きっぱりと「ナポリタン」とまで書いてある。

「スパゲッティ・ナポリタン」 

――― 素晴らしい語感である。たとえ和製伊語であろうと、美しい響きだと思う。

 
「本場のナポリには、ナポリタンは無いんだってね」と誰でも知ってることを、したり顔で言う奴がいるが、ハンバーガーだって、ハンブルグの郷土料理ではない。日本発のイタリア料理があってもいいではないか。


 どうしてもスパゲッティのことをパスタと言わなければ気がすまない奴は、小麦粉関係にとらわれず、ものみな「パスタ」と呼んだらどうだ。そうすれば、この世は「オシャレ」で「ハイカラ」で「カッコイイ」ものに満ちあふれるかもしれないぞ。
























この項おわり







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